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specimen box

未知なる独断と偏見を

「Joseph Spenceと里国隆」楽園の犬

〝プロトロツポ・チエーラ・イル・パラディーゾ・・・!〟

 

楽園、パラダイス、はらいそ*1

そこは日々戦い続ける企業戦士と自宅警備員の憧れの地であり、疲れを癒す一抹の清涼剤となるべき場所。決して、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道楽園郡*2ではない。

政治的な意味での楽園を捉えるのならばラテン・アメリカかもしれないが、ガルシア・マルケスの「チリ潜入記*3」やミゲル・アンヘル・アストゥーリアスの「大統領閣下」を読むと、それはただの独裁と隷従の意味かもしれないと考え直す。ラテン文学には侵略と独裁の香りがある。これはコロンブスが新大陸に持ち込んだ〝楽園〟の裏打ちと取れなくはないのだ*4

戒厳令下チリ潜入記―ある映画監督の冒険 (岩波新書 黄版 359) 大統領閣下 (ラテンアメリカの文学 (2)) 楽園の犬 (ラテンアメリカ文学選集 7)

 

ただ、「うた」は別かも知れない。アベル・ポッセが「楽園の犬」にこう書いている。

 犬たちは神が色彩を惜しんだ唯一の生き物だった。ロマンティックかつバロック的な誘惑を前に創造主がすっかり自制心をなくしてしまったこの地にあって、これは特筆すべきことだった。

 

僕は 「Joseph Spence」を聞いている。

 Bahamian Guitarist: Good Morning Mr. Walker Living on the Hallelujah Side Good Morning Mr. Walker

Joseph Spence(ジョセフ・スペンス)はカリブ海バハマ諸島*5のアンドロスのギタリスト。

1910年8月10日に牧師の息子として生まれ、学校を卒業すると米国へ渡り、漁業や農作業の雑用や石切工、大工などをして働く。グレイトフル・デッドライ・クーダーなどに取り上げられ独特の奏法と嗄れた歌唱が魅力となっている。聞き込むたびに螺旋のような世界へ入り込む。

ルイ・アームストロングも助走をつけて逃げ出すレベルで、今なお熱狂的なファンが多いが、いまいち知られていない。

 

実は日本にもいる。里国隆(さと・くにたか)だ。

路傍の芸 黒声 あがれゆぬはる加那

奄美アウトサイダー

大正8年、奄美北部の笠利町崎原に生まれ、生後8ヶ月の時に失明。その後、17歳で家を出てからは竪琴を携え沖縄・奄美の各地を放浪する。盲学校がなく、学校へ行けない里は、樟脳売りの老人について家出、樟脳売りの行商人として放浪の人生を送る。

戦中は駐営地を慰問して廻り、戦後はアメリカ統治下の沖縄で過ごすものの、昭和38年にベトナム戦争前夜となるなか故郷奄美大島に戻る。昼は市内の路上で樟脳を売り、夜は盛り場で流しをするという生活だった。

しかし、生来の放浪癖は直らず、ふらりと居なくなることもままあったという。

 

・・・彼らの「うた」を聴くとき、「楽園の犬」の文章が目眩く点滅する。

死者たちは無視しなければならない。もし少しでも中に入れたら、彼らは生者の時間と空間を奪い去り、ついには人を狂気へと追い込むこともあった。犬のように扱わなければならない。連中の空威張りには目もくれず、決してこわがっているところを見せないことだ。

それは静かな侵略だった。侵略行為というよりは、身を守るための抵抗だった。

反乱を企てたのは数百匹におよぶ楽園の子犬たちだった。

 

バハマも沖縄も侵略の歴史がある。だが、同時に「うた」もあった。

神が色彩を惜しんだ唯一のものは、僕にはこう聞こえる。

「それでも、楽園は存在する・・・!」

*1:細野晴臣

*2:「地上の楽園」とのプロパガンダ説あり

*3:ミゲル・リティンの映画は未見です・・・

*4:ただし、バルガス・リョサの「楽園への道」はこれにあたらない。

*5:「楽園の犬」でこき下ろされているコロンブスが上陸した場所。バハマは黒髭と呼ばれたエドワード・ティーチの根城だった。その後はイギリス領

「クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲」 フロイティズムの敗北

映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲 よつばと! (13) (電撃コミックス) おじゃる丸 第1シリーズ(2) [DVD]

(5歳児が主人公の作品たち)

「オトナ帝国の逆襲」―劇場シリーズの中でも屈指の人気作だが、この作品で気に入らない場面がある。

最後の盛り上がりで、悪役に対して野原しんのすけが「ずるいぞ!」と声を上げるところだ。非常に台詞調で制作陣が「言わせている」感じが強い。後付のように説明するのもマイナス、と言うより子どもはわからんだろ、これ。

 

 さて、育児を経験した人からすれば、5歳のアニメキャラクターである野原しんのすけ君は「正しくフロイト的」である。フロイトが男根期(3.5 - 6歳)と名付けたものは、自らの性器、そして異性との性差についての関心を中心としており、作品の中では、あますところ無く描かれている。カモンベイビーもゾーさんもフロイティズムがパワフル全開*1なのである。

逆に言えば、育児経験者からすると、その部分がごっそりと抜け落ちているものは違和感が強い。それが描写の省略なのか、作者の力量が未達なのかは知らない。ただ、幼児性をありがたがる一定層の人には「違うよ」とだけ言いたい。フロイトが至ったのも「人の子の親」としての結論だったのだろう。

精神分析学者のジークムント・フロイト*2は20世紀の思想*3に大きな影響を与えた。彼の研究は精神病理、自我と無意識、欲求など広範な範囲に及んだが、ここでは先述した小児性欲周辺について書きたい。子どもの成長をフロイト的に語るアニメで、避けて通れないのが「エディプス・コンプレックス」を主軸*4にしたエヴァンゲリオン*5だろう。一応、補足すると「機動戦士ガンダム*6」も、当時ある程度議論があったと聞いている。

さらに余談だが、これ系でいけば「serial experiments lain*7」も外せない。

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 エディプス・コンプレックスは、特に男児の無意識に同性である父親を憎み、母親を慕う傾向のことを指す。ギリシア神話オイディプス王*8の話にちなんだもので、フロイトドストエフスキー作品*9などでエディプス・コンプレックスを説こうとしている。

 ここで「オトナ帝国の逆襲」の5歳児・野原しんのすけと父である野原ひろしの関係をエディプス・コンプレックスを通して説明しようなどとは思わない。ノスタルジーがあり、オトナ帝国でアダルトチルドレンを模した内容を解き明かそうとするのとは違う。そうではないのだ。

 エヴァンゲリオンの主要制作陣の一人、鶴巻和哉氏が過去に「シンジ君の成長物語なのに、誰もそういう見方をしてくれない」と嘆いていた。これは全編に溢れるペダンチックな構成が主な要因だが、もしキャラクター造形がフロイティズムを内在しているのであれば、ある意味でその「敗北」を示している。

当初からフロイトの理論は、周囲に疑念を持たれてきた。主観を軸にした臨床結果や力動論を活用した構造解説*10が批判を浴びていた。ユングアドラーなどの弟子も次々と去り、「そもそも学問ではない*11」とまで言われた。こうした状況でフロイトは自嘲気味に 「〝否定と出会う〟ことが出発点である」という言葉を残している。1972年にはジル・ドゥールーズとフェリックス・ガタリが「アンチ・オイディプス」を発表した。ここでは人間の欲求は社会との関係の中で育まれていくとし、父親は子どもを取り巻く社会の代理人であるため、その衝突は然るべきものと再定義して絶賛を浴びた。そして、僕もこちらを支持したい。

・・・野原しんのすけ君が叫んだ「ずるいぞ!」はアニメキャラクターと制作陣との関係、この作品を見る親子連れの関係の上では「正しくフロイト的」ではない。ただ、オトナが見れば話の筋としては大いに理解ができるのだ。

*1:オラはにんきもの

*2:フロイト自身も父親と仲が悪かった

*3:アインシュタイン相対性理論マルクス資本論フロイト精神分析論は当時のユダヤ知識階級の豊穣さと彼らがいかに世界を人工的に解釈したかを考えるいいきっかけになる

*4:庵野監督は当初、碇ゲンドウとの父と子の物語にしたかったそうだが、途中でゲンドウがとにかく邪魔だったらしい。ちなみに女の子の場合はエレクトラ・コンプレックと言うそうだ

*5:僕はTV版原理主義

*6:富野御大によると、ランバ・ラルアムロの父性的役割を果たしているそう。ただ、オリジンのラルの扱いは異論あり

*7:これは完全にエヴァの後発。ユング集合的無意識と電脳文化との接近を狙った

*8:ソポクレスによるギリシア悲劇父親を殺し、母親と結婚するという内容で、最後は自らの眼を刺して盲目の乞食となって終わる。これを翻案とした作品がコクトーなどにある

*9:カラマーゾフの兄弟、未成年など。ドストエフスキーも一般の男子と同じように父親と衝突していたが、父親の最後(小作農たちに惨殺された)には同情していたようだ。また未成年が出た頃はツルゲーネフの「父と子」が流行していた時期でもあり、あまり直線的に関係を論じるのは難しいと思う

*10:当時はニューロンが出てきたくらいで、認知科学の確立は1956年のダートマス会議まで待たないと行けない

*11:日本でも「新青年」の執筆陣から「何でもかんでも性欲のせいにしている」と投げ掛けられていた

「澁澤龍彦」 太陽にさえ黒点がある。

 ジャン・コクトーは「阿片*1」冒頭をジャン・デボルド*2に向けて

「太陽にさえ黒点がある。君の心にはそれがない。

 君は日ごとに僕に見せてくれる、 この世に悪が存在するのを見出す君の驚きのさまを」

・・・と始めた。

コクトーと言えばアンナ・ド・ノアイユやアルフォンス・ドーデ夫人のサロンでピカソジッド*3、サティ、ドビュッシーヴァレリーアポリネールなどと交流を深め、思索と技巧を錬磨したことが有名だ。

白書 阿片―或る解毒治療の日記 (角川文庫) 恐るべき子供たち (岩波文庫)

  かつて日本にも「文壇*4」と呼ばれる知的コミュニティーが存在したが、あくまで文人の佇まいを崩さず、むしろ俳諧や詩歌の世界との接触が強かった。まぁ、アクの強い言い方をすれば組合的な側面が大きいのだろう。

 

1970年代、澁澤龍彦らが提示したのは違う。

 フランス文学を研究し、積極的に紹介してきた澁澤が作り上げたのは徹底的に「表現活動」のサロンだった。寺山修司三島由紀夫唐十郎土方巽四谷シモン細江英公大野一雄美輪明宏大島渚横尾忠則山下洋輔*5など、時にアングラ、時にアヴァンギャルドと言われながら大きな潮流を作っていた。

田園に死す 状況劇場 劇中歌集 一柳慧作曲「オペラ横尾忠則を歌う」

 ただ、今日僕が言いたいのは澁澤龍彦の作品についてではない、その「筆跡*6」がたまらない。

四谷シモン氏のHPで公開されている。 澁澤龍彦から寄せられたオマージュ

サドやアンドロギュニュスについて、こんな女子高生の丸文字みたいに書かれたら―

 あぁ! やっぱり作品も少し語ろう*7、僕の大好きなものは以下の3点。

ブレストの乱暴者 (河出文庫)  高丘親王航海記 (文春文庫)  黄金時代 澁澤龍彦コレクション (河出文庫)

左:ブレストの乱暴者

数ある澁澤訳の中でも白眉。ジャン・ジュネ*8の世界観とも合致して素晴らしい。

中:高丘親王航海記

晩年の小説家としての才能が光る。膨大な西洋的象徴、物語理論を煮詰めて日本の風土に象嵌し、さらに自身の闘病経験*9さえも重ねるという出色の作品。

右:黄金時代

エッセイスト澁澤龍彦を確立したと言われている。多少の若書きが逆に魅力となっている。

 

 

・・・澁澤龍彦については、本当に多くの人が書いている。

マルキ・ド・サドについても、サド裁判についても、手帖シリーズについても、数々のエッセイについても書きたいことは山ほどある。好きな人はわかってもらえると思うが、澁澤龍彦は西洋世界の一つを紹介し、日本の一つのコミュニティーを形成した。それは巨大な惑星群である。その中心にはもちろん太陽があり、黒点がある。

澁澤龍彦の筆跡はコクトーのように詩的ではない、ただ、その墨の黒色からは驚きが産まれてきただけだ。

*1:コクトーの数ある著作の中でも、薬物の力を借りて作り上げた珠玉の出来。薬物ものとしてはクインシー「阿片中毒者の告白」、ボードレール「人口楽園」、バロウズ「ジャンキー」なども押さえたい

*2:小説家、同性愛者。「悲劇役者」「熱愛」など。コクトーとはアレな関係で、後のコクトーの衝撃作「白書」の遠因となる

*3:ジッドサルトルの「嘔吐」を読み、図書館内での男色表現にクレームを付けたが、これはやはり慧眼だと思う

*4:伊藤整の「日本文壇史」もいいが、野坂昭如の「文壇」でもいい

*5:現代の渋さ知らズタモリまでを俯瞰する日本のインプロ・東京の地下ジャズの系譜はまた別で書きたい

*6:少し前に河出書房から自筆原稿で印刷したものが出回ったような気がするが失念

*7:美輪明宏とのキスをせがんだ三島由紀夫のように、わがままを言っても良いじゃないか

*8:薔薇の奇跡、花のノートルダム、泥棒日記・・・ジュネはいい!ジュネはいいのだ!

*9:咽頭がん

All in the golden afternoon ...

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